fc2ブログ
よせふで いつげんが説く
中学生・高校生への“弁証法”講義

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を
中学生にも分かるような易しい具体例で説いていきます

臨床心理学の4領域

前回は,臨床心理学と精神医学を比較することで,臨床心理学とは何かをヨリ深く理解してもらおうという意図のもと,書き進めました。その意図がどれほど達成できたかは不明ですが,一般に,あるものと,その類似概念を比較することによって,あるものの性質がヨリ浮き彫りになる,ということはいえるかと思います。たとえば,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)に出てくる概念でいうと,「科学的」と「唯物論的」,「性格」と「性質」,「弁証法」と「弁証法的」と「弁証法性」など,あるいは他にも「概念」と「論理」など,これらがどう違うか,みなさんは明確に説明できますか? 最初は「だいたい同じ」と大雑把に押さえておけばいいということもあるのですが,学びが進んでいけば,当然にその違いにも着目できるようにならないといけないと思います。

さて今回は,臨床心理学の4領域といわれるものについて,簡単に紹介したいと思います。まず最初に,臨床心理学のイメージをヨリ具体的に描いていもらうために,臨床心理学とは何かを別の角度から説いてみます。

みなさんは「カウンセリング」という言葉をご存じでしょうか? カウンセリングというのはいろいろな分野で使われる言葉ですが,ここでは心の悩みを持った人に対してその相談を受けるというような意味で使います。臨床心理士の主な仕事はこのカウンセリングであるといっていいかと思います。たとえば,仕事のやる気がでないとか,子どもが不登校になってしまって困っているとか,DVで苦しんでいるとか,そういった悩みを持った人に対して,その相談にのるのがカウンセリングです。だいたい,週に1回,50分くらいの時間で,決まった場所で相談に来る人(クライエントといいます)とカウンセラーが一対一で話をするのが基本です。

ごく単純化していってしまうと,このカウンセリングという実践を支える理論が臨床心理学です。医療(=診断と治療)を支える理論が医学というのと同じ関係です。そして,カウンセリングにおいても,医療における診断と治療に相当するものが存在します。前回も触れましたが,アセスメント(見立て)とセラピー(援助)です。病気をどう診断してどう治療すればいいのかを明らかにするのが医学であるように,心の問題や悩みをどう見立ててどう援助すればいいのかを明らかにするのが臨床心理学であるといえます。臨床心理学のだいたいのイメージは描けたでしょうか?

したがって,臨床心理学の主な領域としては,「臨床心理アセスメント」と「臨床心理的援助」の二つということになります。臨床心理アセスメントというのは,心とはどのようなものなのか,そしてクライエントの心的状態をどのようにして見立てるか,などを明らかにしようとする領域です。たとえば,さまざまな心理テストが開発されていますが,そういった心理テストはこの領域で扱われます。また,臨床心理的援助というのは,アセスメントの所見にしたがって,実際にどのように援助していくのかを明らかにしようとする領域です。さまざまな援助の方法が提起されています。主なものだけでも,3つくらいのグループに分けることができます。

さて,今回のタイトルは「臨床心理学の4領域」でした。残り二つは,「コミュニティ援助」と「研究法」です。コミュニティ援助というのは,クライエントが生活する小社会に働きかけ,協力体制を助成することです。この分野は特にコミュニティ心理学などと呼ばれることもあります。研究法というのはそのままの意味で,臨床心理学はどのように研究していけばいいのかを明らかにしようとする領域です。

以上のように,臨床心理学の4領域とは「臨床心理アセスメント」「臨床心理的援助」「コミュニティ援助」「研究法」のことをいいます。これは臨床心理学の世界で一般的にいわれている分類なのですが,みなさんは何かおかしいと思いませんでしたか? 端的に言えば,単に臨床心理学が担っている領域を平面的に4つ並べただけで,まったく論理的ではないのです。臨床心理学の学問的なレベルを如実に反映しているといえます。こういう非論理的な分類に対しては直観的に「気持ち悪い!」と思えるような頭を創っていってほしいと思います。ただ,このような現象的な領域分けも,臨床心理学にはこんな活動があるのかと,それなりに分かるだけに,役立つかもしれないと思って紹介しました。

さて次回以降は,主として臨床心理的援助(サイコセラピー)を取り上げ,現状でどのような流派が存在するのか,それらの流派はどのような理論を持っているのか,を順番に説明していきたいと思います。
スポンサーサイト



臨床心理学と精神医学との違い

前回は,臨床心理学とは何かを,学問とは何か,個別科学とは何か,心理学とは何か,を踏まえて説いていきました。結局定義としては『心理学辞典』のものを使いましたが,おおよそ理解していただけたと思います。もう一度その定義を引用しておきます。

「主として心理・行動面の障害の治療・援助,およびこれらの障害の予防,さらに人々の心理・行動面のより健全な向上を図ることをめざす心理学の一専門分野」



さて,この定義を見て読者のみなさんの中には,ふとした疑問が浮かんだ方がいらっしゃるかもしれません。最後の「心理学の一専門分野」の部分を「医学の一専門分野」とすると,これはそのまま「精神医学」の定義になるのではないか,つまり精神医学と臨床心理学は同じなのではないか,と。

端的に言ってしまえば,似たようなところもありますし,実際に重なっている部分もあるかと思います。しかし,当然それなりに違いもありますので,どう違うのかを簡単に説いておきたいと思います。

まず,対象が違います。精神医学は,医学の一分野ですから,その対象は病気の診断と治療です。これに対して臨床心理学は,「病気」とまでは呼べないレベルの心の問題や不適応などを主な対象にしています。たとえば,進路選択に悩んでいるとか,友人関係でやなんでいるとか,こういうものは臨床心理学の対象ではあっても精神医学の対象にはなりません。もちろん,病気か否かの境界線は不明瞭ですし,臨床心理学もある程度は病気のレベルまで対象とすることがあります。そういう意味では,重なっている部分は確かに存在するといえます。

第二に,方法が違います。精神医学では治療の主な方法は薬物治療ということになります。本来の精神医学では,そうではないはずなのですが,現状では薬に頼った治療がなされています。これに対して臨床心理学では,心理療法でもって,心の問題を解決しようとします。これは言語や非言語の交流を通して,問題の解決を図ろうとするものです。また,個人に対してではなく,家族や小社会に対する介入を行う場合もあります。この方法における区別も相対的なものであって,精神医学でも当然,心理療法を行う場合もありますし,集団に働きかけることもあります。もっとも,臨床心理学を修めた臨床心理士が投薬することはあり得ませんが。これは,その資格がないからです。

以上のように,精神医学と比較すると,臨床心理学は,比較的軽度の心の問題に対して,投薬以外の方法でアプローチするものだということができます。その目的も,病気を治そうというよりはむしろ,成長を援助するとか,適応を手助けするとか,そういう点が強調される場合もあるようです。臨床心理学の起源の一つには精神医学もあるのですが,そこから分離・独立する流れの中で,そのオリジナリティを出そうと,独自性を打ち出そうと,必死で戦っている最中という感じです。そのため,医学用語を使わずに,独自の用語を用いることが多いです。たとえば,診断とはいわずにアセスメントとか見立てという言い方をしますし,治療とはいわずにセラピーとカタカナで言います。医学の領域では精神療法という言い方をしますが,心理学の世界では心理療法と,これまた微妙に呼び方が違います。

オリジナリティというと,たとえば病院に就職した臨床心理士が一番活躍できる分野は,心理テストだといわれています。医者はいちいち時間を書けて心理テストなんてしませんし,そもそも心理テストの理論や実施法なんて学んでいませんから,それを心理士に任せるようです。

そもそも臨床心理学自体がニッチ学問ですので,精神医学が扱わないような隙間の部分を何とか見つけ出して,それを専門にしているようなところがあるように感じます。しかし,精神医学と似ているのも事実で,実際,臨床心理学を学んでいく中で,優れた精神科医である臨床家の著作を読むように勧められることも多いものです。

今回は,臨床心理学と精神医学の違いということを説明しました。最後に,なぜ私が精神医学ではなく臨床心理学を志したのかを説いておきます。端的には,心とは何か,精神とは何か,を究めるには,精神医学より臨床心理学の方がいいと判断したからです。精神医学者と臨床心理士の関係をたとえるとすると,大学病院の研究者と町医者の関係に近いといえるかと思います。前者は歪みきった,しっかりと病気として現象している対象と関わるのに対して,後者はまだ歪みきってはいない,ある意味過渡期で変化の途上にある対象と関わることが多いので,そもそも健康な状態と,それが歪んでいくプロセスにしっかり関われるのではないか,と考えたのです。

今回は以上です。次回からは,臨床心理学の主な領域と,さまざまな異なる理論がありますので,それらを紹介していきたいと思います。

臨床心理学とは何か

弁証法を学びたい中学生・高校生のみなさん,お久しぶりです。本当に長い間お休みしてしまいました。私は一年前に大学院に入って,臨床心理学を学んできました。新しい環境と新しい生活の中で,新しい学問を学ぶということで,なかなかたいへんで,忙しさを口実にして,ブログの再開に踏み切れませんでした。スミマセン。

しかし,一年もたってしまったので,心機一転,再開することにしました。内容は,せっかくですから私が学んできた臨床心理学を新たに取り上げたいと思います。臨床心理学やその周辺の内容を,中学生・高校生のみなさんにも分かってもらえるように分かりやすく,弁証法的に説いていこうということです。

まず初回ですので,当然,「臨床心理学とは何か?」について説明したいと思います。みなさんは「○○とは何か?」と考えるとき,どのようなプロセスを辿って考えますか? たとえば「人間とは何か?」と考えるときはどうでしょうか? 仮に,「人間は動物である」と答えを出すと,この答えは間違っているでしょうか?

一般的にはこの答えは,間違っているとともに間違っていない,といえます。間違っているというのは,動物には人間の他にも犬もいれば馬もいますし,蛙や魚もいるからです。つまり,人間=動物だけでは,「人間とは何か?」という問いに対する答えとして不十分なのです。しかし,まずは「人間とは動物である」と捉えることは大切です。大枠で押さえておくことは大切だ,ということです。そうすれば,大きく間違うことはないからです。「人間とは動物である」というのは確かにその通りで,間違っていないのです。大きな目で見れば,人間とは動物であるといってもいいのです。

したがって,「人間とは動物である」と一応の答えを出したあとにすべきことは,動物の中の人間としての特殊性を明らかにすることです。動物は動物なのだけれども,人間という動物は,他の動物とどう違うのか,ということを明らかにする必要があるのです。そのためには,実は「動物とは何か?」という新しい問いに答える必要が出てきます。それに対しては,「動物は生物である」という一応の答えを出してもいいでしょう。すると再び,動物は生物であるけれどもどういう特殊性を持っているのか,つまり植物とはどう違うのか,を明らかにする必要が出てきます。それを明らかにするためには,やはり「生物とは何か?」という新しい問いに答える必要が出てくるのです。すると,それに対しては「生物とは物質である」とかいう一応の答えを出すことが可能となり,では,生物の特殊性とは何か,生物と非生物の違いは何か,と考えていかなければならなくなります。

このように,「○○とは何か?」を考えるに際して,大枠で捉え,他のものとの違いを明らかにしていくというのが,弁証法的な考え方です。○○だけを考えるのではなく,他のものとのつながりを見ていくのです。

では,臨床心理学についても同じように考えてみましょう。先ほどは,「人間<動物<生物<物質」と広がっていきましたが,臨床心理学の場合はたとえば,「臨床心理学<心理学<個別科学<学問」と広げることができるでしょう。

臨床心理学というからには,「臨床心理学とは心理学である」といっても大枠では当たっているはずです。さらに心理学というのは,一つの個別科学です。そして個別科学というのは,大枠で捉えると学問そのものです。

では,順番に考えていきましょう。学問というのは,何らかの対象に関して,筋を通して考えてまとめていこうとする人間の活動,あるいは,その結果できあがった知の体系,ということですね。個別科学というのは,その学問の中で,哲学的な方法ではなくて科学的な方法で対象にアプローチするものです。事実(証拠)に基づいて考えていくということです。しかも,対象を「生物」とか「経済」とか「言語」とか,ある程度絞ったものに限定します。その個別科学の中で,「生物」とか「経済」とか「言語」ではなく,「心」に限定したものが心理学ですね。

少し脱線しますと,心理学の有名な辞典である『心理学辞典』(有斐閣)の項目の中には,「心」もなければ「心理」もありません。そもそも心理学とは「心」なり「心理」なりを対象として,「心とは何か」「心理とは何か」を筋を通してまとめた体系であるべきなのに,最新の辞書にその項目がないのです。これは,心理学がいかに未熟な学問であるかを端的に示していると思います。

閑話休題,では心理学の中で,臨床心理学とはどのような特殊性を持っているのでしょうか? 「臨床」という言葉をヒントに考えてみましょう。『広辞苑』では,「病床に臨むこと」とあります。ごく簡単にいうと,患者に接することですね。ですから臨床心理学というのは,おおよそ次のように定義できると思います。

「主として心理・行動面の障害の治療・援助,およびこれらの障害の予防,さらに人々の心理・行動面のより健全な向上を図ることをめざす心理学の一専門分野」(『心理学辞典』)



心の中でも,心の障害とか心の問題とかに焦点を当てて,それを解決するために研究する学問といっていいでしょう。上記の引用の中で,「心理・行動面の障害」とあることに違和感を覚えた方もいらっしゃるかもしれません。「心理面の障害」だけでいいのではないかと感じるかもしれません。実は,心理学のある立場の人たちは,「心なんてないんだ」とか「心なんていう概念を想定する必要はない」とか考える立場の人々がいます。しかも,マイナーな派閥ではなくて,かなり大きな派閥を構成しています。この立場は,目に見える行動だけを問題にしますので,行動主義と呼ばれています。その行動主義も考慮して,上記のような定義になったものと考えられます。

以上の説明で,「臨床心理学とは何か?」は,おおよそ分かっていただけたでしょうか? 「ん?」と新たな疑問が生じた方もいるかもしれません。その生じるかもしれない疑問については,次回説いてみたいと思います。

少しの間お休みします

弁証法を学びたい、中学生・高校生のみなさん、この二ヶ月にわたって弁証法の基本を、中学理科を素材にして説いてきました。まだまだ理科の全分野を網羅していませんが、残念ながら、少しの間お休みさせていただきます。理由を端的に言うと、私が引っ越しするからです。引っ越しが完了した後に再開する予定です。遅くとも4月の中旬頃には再開できるはずです。

4月以降は引き続き理科を素材として扱いますが、それが一通り終わりましたら、社会の内容を取り上げたいと思います。他にも英語や国語(特にことわざ)なども適宜取り入れ、中学生の方にも高校生の方にも、一般教養の基礎の基礎と直接に弁証法の基本がしっかりと学べるように説いていく予定ですので、楽しみにしておいてください。

それまでの間、特に私が塾で教えていた新大学生に向けて、入学後すぐにでも読んでほしい超おすすめの本を二冊は紹介したいと思います。私のもう一つのブログで、です。この"弁証法"講義の読者のみなさんも、以下のブログをチェックしていただけるとありがたいです。

寄筆一元修行日誌

では4月にまたお会いしましょう。

物質の振動と音

今回は、物質の振動と音との関係を考えてみましょう。

前回までに勉強したことから考えると、物質が振動しているから、私たちはそれを音として感じることができる、といえますね。つまり、振動が原因で、音がその結果である、と。

しかし、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)には、「さらにつっこんで考えてみる」必要性が説かれています。その部分を引用してみましょう。

「外部の原因から結果が媒介されるだけでなく、結果として生れる現象の内部にもまた原因のあることを考えなければならなくなります。」(p.93)



これは「因果関係の構造」と題した項に書かれてある文章です。つまり、原因は外部だけでなく、内部にもある、ということです。

今回の振動と音との関係で考えてみましょう。確かに「音」を感じるのは、外部に物質の振動があるからです。しかし、それだけではないのです。物質の振動が耳に届いて音を感じるわけですが、耳に音を感じる機能があるからこそ、音を感じるわけです。音を感じる機能というのもまた、音を感じる原因であるのです。

したがって、何らかの障害でこの機能を失ってしまうと、いくら外部に振動があっても、音を感じることはできません。また、正常な耳の機能を持っていても、以前学んだように人間の耳に聞こえる振動数の範囲は決まっていますので、その範囲外の振動であれば、音を感じることはないのです。

因果関係の構造というのはこのようなものですので、原因と結果を考えるときは、常にこの項に戻って、しっかりと構造をつかむ訓練をするようにしてください。

ふりこの等時性

前回までに、光や音に関して、その波としての性質を検討してきました。波というのは振動ですね。そこで今回は、観察しやすい振動であるふりこについて学んでいくことにしましょう。

ふりこというのは、糸やひもに重りをつるして、支点を中心にして振れるようにしたものです。実はこのふりこの運動には法則性があります。それをイタリアの科学者であるガリレオ・ガリレイが発見しました。念のためにガリレイについて、『学研 ニューワイド学習百科事典』の記事を引用しておきます。

ガリレイ(Galileo Galilei)
イタリアの物理学者、天文学者(1564-1642)。ピサ大学・パドバ大学教授。ピサに生まれ、ピサ大学で医学を修めた。数学や物理学に興味をもち、在学中に寺院のシャンデリアの振れ方から振り子の等時性を発見。また、ピサの斜塔で落体の実験を行い、アリストテレスの力学の誤りを実証した。1609年ガリレイ式望遠鏡を製作し、太陽の黒点,月の表面の凹凸、木星の衛星を発見。これから地動説を熱心に唱導したが、宗教裁判にかけられ地動説の放棄を命じられた。1632年「天文学対話」を著したが、異議が出てローマに幽閉され、数か月後に釈放されたとき、「それでも地球は動く」とつぶやいたと伝えられる。1638年「新科学対話」を著し、慣性の法則・落体の法則を記述。自然科学の父といわれる。ガリレオ。



ふりこの運動にある法則性というのは、この記事にもある「ふりこの等時性」というものです。では、ふりこの等時性とは何でしょうか?

ふりこというのは揺れる幅や重りの重さによって、1往復に要する時間が変わるように思われるかもしれません。でも、実はそうではないのです。ふりこの1往復の時間は、振れる幅や重りの重さに関係なく、ふりこの長さ(支点から重りまでの距離)によって決まっているのです。これがふりこの等時性です。簡単にいうと、振り子がたとえ大きく振れていようが、小さく振れていようが、1往復にかかる時間は全く同じであり、また、ふりこの重さが重かろうが、軽かろうが、1往復にかかる時間は全く同じなのです。

このふりこの等時性は、一種の法則です。毎度くり返しますが、法則について、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)から引用しておきます。

「……一定の領域で起るいろいろな現象はそこをつらぬく基本的な、普遍的な、必然的な関係の上に立っていることがあきらかになります。この関係を認識の中にすくいあげたものを法則とよんでいます。」(pp.21-22)



ふりこの等時性についていえば、1往復にかかる時間と、振れる幅・重りの重さ・ふりこの長さの関係について問題になっています。1往復にかかる時間は、振れる幅や重りの多さとは無関係であるが、ふりこの長さによって影響されるということです。

だから、ギターの弦を強くはじこうが弱くはじこうが、1往復にかかる時間は弦によって決まっており、したがって振動数も同じだから音程も同じになるわけです。また、ふりこ時計は、このふりこの等時性を利用して時間を刻んでいます。

今回はまた一つの法則を取り上げました。法則が出てくるたびに『弁証法はどういう科学か』の記述に戻り、『弁証法はどういう科学か』の法則の箇所を読むたびに、具体的な法則をパパッと10個くらいはいえるようにして、認識ののぼりおりをくり返してほしいと思います。

音の高さ

今回は音について学びましょう。特に、音の高さについて、です。

まず、そもそも音とは何でしょうか? 音とは、物質の振動です。私たちが声を出しているときに、のどを触ってみてください。振動しているのがわかるはずです。また、太鼓を叩いたり、ギターで音を出して利するときは、太鼓の皮やギターの弦が振動してるのです。こういった振動が、空気の振動を生み出し、私たちの耳にその空気の振動が伝えられて、鼓膜が振動し、それが音として感じられるわけです。

では、音の高さはどのようにして決まるのでしょうか? わかりやすい例として、ギターの弦を考えていましょう。ギターの弦をはじくと、音がします。よく観察すると、弦が上下に振動していることがわかります。実は、この振動するスピードによって、音が高く聞こえたり低く聞こえたりするのです。

一秒間に振動する回数を振動数といいます。単位は、Hz(ヘルツ)を使います。たとえば、440Hzというのは、一秒間に弦が440回振動しているということです。この振動数が多いほど音は高く聞こえ、逆に振動数が少ないほど低く聞こえます。440Hzは「ラ」の音に相当します。倍の880Hzになると、一オクターブ高い「ラ」の音です。一般に、振動数が倍になれば、元の音より一オクターブ高くなります。

少し余談になりますが、蜂は1秒間に約200回羽ばたくので、その音は約200Hzです。また、蚊は1秒間に約500回羽ばたくので、その音は約500Hzになります。ですから、蚊の方が高い音を出すのです。夏に耳元を飛んでいる蚊の不快な音は、蚊の羽ばたく回数が原因で生じているのですね。

さて、本題です。人の耳に聞こえるのは、20~20000Hzの範囲であるといわれています。すなわち、1秒間の振動数が0から19までは人の耳に聞こえないのに、20を超えると聞こえるようになり、20000を超えると再び聞こえなくなるのです。振動数の量的な増加が、人にとって聞こえたり聞こえなかったりという質的な変化をもたらすのですから、これは量質転化の一例ということができますね。

もう少し詳しく検討してみるならば、これは媒介関係における量質転化であるということが分かります。振動数が増えても、その振動自体の性質が何か変化するわけではありません。三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)にある、モルヒネとかコカインのような薬品と同様、人体との媒介関係において質的な規定を受け取るわけです。ですから、媒介者が変われば、量質転化の結節点も変わるのです。

例えばコオモリは、1000~120000Hzの範囲の振動を「音」として捉えることができるそうです。結節点が人とはずいぶん違いますね。コオモリは人には聞き取れないような振動数の多い音(これを超音波といいます)を出して、物体にあたって反射してきた超音波を捉えて物体の位置を知り、それにぶつからないように空中を飛び回ることができます。漁船が魚を探すときの魚群探知機も同様に、超音波が物体にあたって反射する音を利用しています。

というわけで今回は、音の高低に関する量質転化を取り上げました。今日はここまでにしましょう。

光の波長

今回は光の波長について勉強します。

太陽光はプリズムで分解すると、連続した色の帯が現れます。赤、だいだい、黄、緑、青、藍、紫の七色です(もちろん、連続していますから、他にいかようにも区別できます)。プリズムというのは、ガラスでできた三角柱だと思ってください。このプリズムに光が進入すると、進入する際と出て行く際に二度屈折しますが、二つの面は平行ではありません。このことによって、太陽光に含まれる屈折率の違う様々な光がうまく分解されるような仕組みになっているのです。なお、雨が降った後の空にできる虹は、空気中の小さな水滴がプリズムと同じ働きをして、太陽光を7つに分解した結果できるものです。

さて、光というのは波としての性質も持っています。波の山から山、あるいは谷から谷までの長さを波長といいますが、プリズムで分解した七つの光は、それぞれ波長が異なっています。波長の量的な変化が、色の変化という質的な変化をもたらすのですから、これは量質転化ですね。

赤や紫の外側にも、目には見えないのですが光の仲間が存在しています。このことは、1800年にイギリスのハーシェルという人が確認しました。彼はプリズムで別れた光の帯に温度計を置いて、どの色の光が一番高温であるかを検証していました。すると、何と、赤色の光より外の、何もないと思われた部分が一番高温だったのです。さらに翌年、ドイツのリッターが、紫色の外側にある種の物質を置くと、黒く変色することを発見しました。こうしたことから、太陽光には、目に見えない部分にも光が含まれていることが分かったのです。ちなみに、前者の熱を運ぶ性質がある光を赤外線、後者の物を変化させる性質がある光を紫外線と呼びますね。

目に見える部分の光を可視光線といいます。可視光線より波長が長いのが赤外線で、短いのが赤外線です。波長が短くなるにつれて、つまり量的に変化するにつれて、見えない光が見えるようになり、また見えなくなるのですから、これも量質転化ですね。赤外線は熱を伝えますので、人が近づくと自動的に開くドアや感応式の信号などに使われるセンサーは、人や車が出している赤外線を感知するようになっています。また、日焼けして皮膚が赤くなるのは赤外線の影響です。このように、波長の量的変化に伴って、単に見えたり見えなくなったりするだけでなく、光そのものの性質も、熱を伝える性質から物を変化させる性質に変わったりしますので、そういう意味でも量質転化です。

光の仲間は実はこれだけではなくて、もっとあります。波長が長い方から並べると、電波、赤外線、可視光線、紫外線、X線、ガンマ線となります。X線というのは1895年にドイツのレントゲンが発見した光の仲間です。物質を透過する性質などがあるので、レントゲン写真等に使われていますね。波長が短くなると、このX線のような性質を持つようになるのですから、これも量質転化ですね。

以上のように、光の持つ様々な性質は、波長の量的変化によってもたらされた質的変化である、ということができるでしょう。

ガラスに映る二重の像

今回も引き続き、光の屈折と反射の問題を扱います。

町中を歩いていると、ガラスに自分の姿が映ることがありますね。これは、光がガラスに反射しているからです。ところが、ガラスには自分の姿だけでなく、その向こうにあるものも映っています(映っているというより、透明なガラスだから、向こうが透けて見えているといった方が正確かもしれませんが)。つまり、ガラスには自分も含めてこちら側の世界が反射していると同時に、ガラスの向こうの世界が屈折しつつも貫通してこちら側にきているわけです。このようにガラス上には、対立物の統一として、二つの世界が同時映っているのです。

しかし、ガラスに映っている自分の姿を眺めているときは、背後にある向こうの世界は見えていません。逆に、ガラスの向こうを見ていると、ガラスに映っているはずの自分の姿は見えなくなってしまいます。人間は、一つのものしか焦点を合わせられないからです。

観念的二重化というのも、これと同じような構造になっているのかもしれませんね。実際には世界が二重化しているのですが、一つの世界しか意識できない、ということです。

今回は少しまとまりがありませんが、以上です。

全反射

今日も光の進み方について学びましょう。

ガラスの中を進んでいた光が空気中に出るとき、前回学んだように屈折します。と同時に反射もします。屈折と反射を、対立物の統一としてつかむ必要があります。

ガラスと空気の境界面に対して垂直な線と、光の進む直線がつくる角度を入射角といいましたね。さらに、同じ垂直な線と、屈折した後の光の進む直線がつくる角度を屈折角といいます。ガラスから空気中に光が進むとき、入射角<屈折角、入射角=反射角になります。

すると、入射角が大きくなっていくと、屈折角がどんどん90°に近づいていき、ついに90°を超えるときがやってきます。しかし、屈折角が90°以上ということはあり得ませんね。屈折角が90°ということは、ガラスと空気の境界面に沿って光が進むということですから、これより大きくなってしまうと、空気中に光が出ないことになってしまいます。さらに、入射角が大きくなっていくと、屈折する光に比べて反射する光の割合が急激に増加していきます。結果として、入射角がある一定の大きさより大きくなると、屈折せずに、全部反射するようになるのです。これを全反射といいます。

この全反射を弁証法的に捉えると、量質転化ということになります。入射角が量的に増加すると、ある結節点を超えたところで、屈折しないという質的な転化がもたらされるからです。ちなみに、この結節点となる入射角のことを臨界角といいます。

この全反射を利用した情報通信機器があるのをみなさんは知っていますか? それは光ファイバーです。光ファイバーはきわめて細いガラス繊維でできています。そのガラス繊維の中を光が進むわけですね。光ファイバイーが曲がっていても、全反射によって光が外に出ることなく、その内部を進んでいくような仕組みになっているわけです。光ファイバーは、従来の銅線の同軸ケーブルにくらべて軽量で、数万倍の情報が送れるそうです。人間は無意識的であっても、弁証法の法則を利用しているのですね。

プロフィール

寄筆一元

Author:寄筆一元
1.自己規定:
  三浦つとむ主義者
  自前の認識論構築を目指す
2.最も尊敬する人物:
  南郷継正・薄井坦子両先生
3.近頃気になる人物:
  悠季真理氏
4.趣味:
  ハイレベルの技を味わうこと
5・現状:
  臨床心理士を目指して勉強中

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク